生立ち
寂しかった幼少時代
1976年2月27日。大阪府鶴見区に生まれる。父は建築会社を経営、母は喫茶店を経営し、学校から家に帰っても、一人ぼっちで、いつもペットの九官鳥に話しかけてました。
休日は、母と映画館に行くのが楽しみで、漫画(怪物くん・アラレちゃん・ドラえもん)が大好きだった。この頃から、何でも一人でこなす事を身に付け、少し孤立してた考え方をし、とにかく自分の居場所創りをしていた。
淀川の端の下で、ダンボールで自分の家を創り、そこへ石を沢山集めて遊んだり、自宅では、押入の中段部分を自分の部屋にし、とにかく自分の空間創りをして、好きな事をする幼少時代。しかし、この頃は両親の喧嘩が絶えず、毎日ビクビクする気持で、泣きながら、寝てました。しかし、両親は私の事を精一杯愛してくれて、喧嘩の原因は、父と母の年齢の差。20歳と言う年齢差で、想いが中々伝わらず、喧嘩の度に私は、どちらかに付き添い、家を出たのを懸命に覚えている。
京都に移った少年時代
小学校3年生の中盤に、父の生まれ故郷である京都宇治へ引っ越す。そこには父の母(祖母)が独り暮らしをしていて、祖母と一緒に生活することになった。
大都会から、環境の良い田舎に引っ越し、私の生活は180℃変わった。今まで、自然を楽しむなんてしたこともなく、遊びと言えば、川で魚を捕まえたり、山で秘密基地を造ったりと、この頃から友達が沢山増えてきた。一番ビックリしたのは、転校先の学校は、コンクリートの建物でなく、木造校舎で、掃除の際には、糠袋で床を磨きあげる。これには、子供ながら大変驚いた。今まで、一人っ子で、わがままで、負けず嫌い。と言うのが、表に出て、すぐに友達は出来たが、すぐに当時で言うガキ大将とも喧嘩になった。
しかし、すぐに仲良くなり、そのガキ大将のお陰で、今も愛する野球に目覚める。
野球虫と言われる少年・中学時代
ガキ大将の誘いで、少年野球チームに体験に行き、家に帰ってから父に相談した。しかし父はグローブは買わないぞ!お前が一人前の選手になるなら、買ってやると言われ、なぜか?家にあったとっても古い(甲子園の歴史館)においてあるようなグローブを持参し、毎日練習に向かってた。幼いころは野球なんて、全く興味がなかったが、バッティングや守備練習をするうちに、楽しくなり、気がつけば夜でも学校に行き、グランドの端にあるコンクリートの壁に目がけて、ボールを投げ続けてた。
そこで、あだながついたのが、野球虫だった。
中学生に入り、私は当然ながら野球一筋の気持ちは変わらず、すぐさま入部。しかし、この頃の中学校は、上下関係が厳しく、入学式早々から私は3年生と喧嘩をし、先輩生に違う意味で目をつけられるようになった。それでも、野球の為なら何でも我慢できた。
入学した中学校は、駅伝で有名な学校で、部活とは別に独立した駅伝部があり、私は下半身を鍛えるためにも、駅伝部に入部し、野球部の練習が終わってから、毎日夜遅くまで駅伝の練習を続けた。そのお陰で、駅伝部としても近畿大会目前までの成績を修め、野球部としても、20数年依頼の府下大会出場を果たした。小学生の頃の守備はキャッチャーだったが、やっぱり野球と言えば、ピッチャーしかない!その思いで、ひたすら練習に励み、自分たちの時代、3年生の頃にはエースとして、背番号1番を手にした。
そして、これまで一人ッ子だった私に、念願の弟が誕生した。
人生の変化の高校生時代
小学校・中学校と野球一色の私は、高校に入っても当然のように、野球部に入部した。中学校の頃から、病が悪化してた父は、度々の入退院を繰り返し、そのお陰で、家には収入もなく、母はパートに出かけてたが、自分の部活の費用はどこからもでず、私は学校近くのガソリンスタンドで深夜までアルバイトを続けた。
そのアルバイト先で、母から連絡があり、お父さんが危ないから早く来なさい。と言われ、病院に駆け付けた。父は私を待っていたように、手を握り締め、そっと甲子園行けよ!と言ってこの世から消えていった。私は頭の中が真っ白になった。父から小学校3年生の頃、一人前の選手になるなら・・・の言葉を胸に毎日頑張った野球。そして必ず、両親を甲子園へ連れて行く。この気持ちがどこかへ消えていった。
父の側から離れて、椅子に座ってると、小さい弟がお兄ちゃん遊ぼう!と笑顔で声をかけてきた。何もわからない弟の姿をみて、この時に、私は自分の想い(夢・目標)よりも、家族を支えていかなければならないと、強く感じた。
2週間後、高校を中退し家族を支える為に、就職した。






